一万八千の神々が宿る火山島、韓国の済州を初めて訪ねた。ソウルの作曲家チョン・ウォンキ氏との創作に向けての、リサーチ旅行だ。
一見、日本の農村や漁村のようで親しさもおぼえる。だが草木の濃緑、火山から溶け出した岩石の黒、白雲と黒雲が不均一に重なった空色、そうして織りなされた風景からは、高すぎる解像度の画像のような異様さも感じる。
「東洋のハワイ」ともいわれる一大観光島だが、森、街、海辺、金石範先生の小説に描かれた悲嘆と混乱を極めた解放後の70数年前の風景が甦る。不意に吹く風に、その登場人物たちの切迫した息遣いを聴く。積み重なった黒い溶岩石の隙間や草木の繁みに耳を澄ますと、この島独特の巫覡で神房(シンバン)が神々の物語(本解=ポンプリ)を唱える呪文のような声も聴こえてくる気がする。
香川県程度の面積という小さな島は、中央に約2000メートルの標高を誇る火山島を中央に擁し、麓を下ればすぐに海。平地部は少なく、石だらけの土壌は、稲作に適さない。一般的に、他地に強く影響を及ぼすような文化は都市を形成しながら平野で生まれる。離島という地理的条件によって周辺国家に翻弄されやすく、貧困だった。だが、それらに抗う精神は逞しかったという。
【鎮魂祭】
そのような島に、歌を訪ねる。新たな創作では、現在の暮らしまで残る多様な巫覡文化が大きなテーマとなる予定。だが今回は、むしろ民謡との出会いが主となった。
現役の海女さんたちと劇団「ノリペ漢拏山」がつくる野外劇では、太鼓を叩いて北東部沿岸の四・三事件の虐殺被害がもっとも大きかった村、北村里(プクチョンリ)の鄙びた海辺の街路や農道を練り歩いた。神木や漁労の要所でたちどまって、感謝の意を述べながら歌い踊る。ついさっき訪れた四・三平和公園では、予報通りの驟雨に打たれ、慰霊塔と不明の犠牲者の無数の墓石群のある広大な敷地を後にし、びしょ濡れになりながら車に駆け込んだ。この夜の野外イベントが行われることは不可能だと残念に思った。
だが土地の人々は雲の流れを読めるのだろうか。
賑々しく鐘や太鼓を打ち鳴らす行列の随行者である私たちも、促されて海豚の幟を持つことになった。それを雨上がりの夕空高くに泳がせる。
【海女の野外劇】
いよいよ埠頭の広場に到着すると、この地の海女さんたちが現れ、歌を歌いながら暮らしそのものを演じる。海女たちが、その労働の仕草を交えたり、タイミングを間違えて恥じらったりしながら演じ歌う。
同じ仕事に従事していたであろう年老いたハルモニたちは、劇中に配られた伝統食の餅を食べながら、海女唄と豊穣を願う巫覡ヨンドンクッの形式を通奏低音にした野外劇を見入っている。
陸地から流入した儒教式の祭儀(酺祭:ポジェ)は男性が行い、女性たちが中心となって古来の巫覡(クッ)を継続させた。クッは植民地時代にも、卑なるものとして禁じられ、戦後も民主化運動以前は、前近代的な呪術として遠ざけられた。
その中には、漁場に無断侵入した観光客を愉快に追い返しつつ和解する話、四・三の痕跡、原発汚染水を防ぐ種を海の「畑」に撒くという時事も織り交ぜられる。そうして海の暮らしとともにある生の存続を願う。
1970~80年代にかけての民主化運動で盛んだった農楽や仮面劇の復興と再生の伝統が、強く残っている。広場を意味する「マダン」劇だ。「ノリペ漢拏山」は、1983年に政府により解散を命じられた劇団を前身として、1987年に結成された。
筏の上に乗った海女たちが「イヨドサナ イヨドサナ」と力強く地声で舟歌を歌いながら、担がれて海のほうに向かってせせり出る。すると花火が連発され、夜空と海と陸との境界のないカオスを作った。
その掛け声は、東シナ海に現存する暗礁、イヨド(離於島)に由来するともいわれる。中国も領有権を主張しているが、済州島民の伝説に語られる幻の理想郷として知られ、そこに行ったものは二度と帰れないとも言われる。
この歌は多くの韓国、朝鮮の民謡と異なり、二拍子系のリズムだ。
ワークソングに伴う踊りはない。労働の所作を伴うので、手や足腰は自由ではない。前日に訪れた、済州民謡の名唄、安福子(アン・ボクジャ)先生によると、いわゆる「済州島舞踊」というものはない。あるとすれば、そのような歌舞はだいぶ後になって作られたものである。ことあるごとに行われる神房による巫覡や、陸地より導入された男性中心の儒教的儀礼のほか、厳しく貧しい暮らしを慰労して歌い踊るような「村祭」はなかったそうだ。
【韓国伝統音楽との違い】
韓国の民衆芸能といえば、道を練り歩いたり、広場で行われたりした、遊行の芸人男寺党(ナムサダン)の芸や農楽、そこから派生する歌唱芸や打楽器合奏をイメージする。しかし、それら「プンムルノリ(風流遊び)」と呼べるこの晩のような娯楽や芸能も、この島の古いものではない。古来の長い困難な歴史を経て、ようやくそれらを用いた「遊び」が、こうして実現されているともいえる。
小さな銅鑼(ケンガリ)をけたたましく打ちながら、我々を含む行列を埠頭まで先導する、初老の男性のリズム感は凄まじかった。たった1、2秒のフック(アウフタクト)となるフレーズで、その後に続く打楽器合奏の熱狂の渦を呼び起こした。
これも、いわゆる古来の民俗芸能の伝統ではない。音楽家である私には、それが鍛えられかなり訓練された専門的な「技術」であることがわかる。だがやはり、済州島には、巫覡で用いる神具としての打楽器以外に、楽器らしい楽器もなかった、と安福子先生からもお聞きした。時間をかけてじょじょに、陸地の歌唱や打楽器合奏の文化が導入されたのだろう。
遠征する海女が各地からもたらす歌も多かった(それらの歌が、研究者たちによって済州島オリジナルの歌と分類されることもあるらしい)。しかし技巧を凝らし鍛え上げた歌唱や、両班文化洗練されたゆっくりとした妓芸の調べは、島の人々に馴染まなかったという。
【歌の記憶】
釜山で生まれ、植民地時代の済州島で育った詩人の金時鐘先生がある対談本の中で回想した、少年時代、1930年代頃の、島の劇場でのエピソードを思い出す。
陸地からきた旅芸人の男は哀切極まる南道民謡「六字唄」を歌った。パンソリ歌唱方のベースにもなる名曲だ。しかしこの地には馴染まず、客席からブーイングの嵐を受けた。芸人はその中で表情を変えずに歌い続けた。異郷の舞台で歌い終わり、伽耶琴を抱えて立ち去るとき、彼はただ一筋涙を流した。それを見た少年も、一人涙をこぼした。
それを読みながらなぜか私も涙が出た。私は、古い民謡そのものというより、むしろこうした、「歌の記憶」を訪ねながら創作しているともいえる。それらは個それぞれ心や身体の奥深くに沈殿する。ときに語りえぬまま消えてゆくそれらを集積し、重ね合わせるように創作するのが、私の音楽劇、ユーラシアンオペラである。
済州市街にある安福子先生のスタジオ「チェジュソルリ(済州の音)」で、2時間ほどお話をお聞きしたあと、たくさんの歌を聞かせてもらった。
パンソリもアリランもこの島にはなかった。島の唄のほとんどは労働歌と、神々の由来を説く神謡だった。あえて娯楽と呼びうるのは、とくに女性にとって、それが都度都度に行われた神房らによるクッにおける謡舞だった。
子供がその場にいることは禁じられていた。幼少時代に、堂でおこなわれる巫覡を、岩陰から覗き、ぞくぞくした。あとで思わず、その呪文のような神房の唄をまねて口ずさんでしまった。見ていたことがばれて、大人たちに叱られた。でも歌わずにはおれなかった。これがのちに名唱となる先生の「歌の記憶」だ。
神歌から民謡化したその「ソウジェ」という歌も歌ってくださった。シャマニズムと民謡の関連は、いずれも身近でなかった私にとっては謎めきつつ、それゆえに創作のテーマにもなっている。
【歌い継ぐ女たち=〜名唄・安福子を訪ねて〜】
つい、二週間前のことですと、先生はこんな話をしてくださった。おそらくかなり高齢な母親が、現在治療のためソウルで親戚が世話をしているとのこと。その親族から夜遅くに電話がかかり、ハルモニが寝ながらうわ言のように「変な言葉」を繰り返して唱えだした。いよいよ危ないかもしれないと焦る。先生が受話器の向こうの声を確かめると、それはあの「イヨドサナ」の歌だったそうだ。このエピソードが、私にとっては、今回の旅で訪ね知った、心に刻印される「歌の記憶」だ。
女性ばかりで構成されるメンバーは、海女仕事で用いる水甕でリズムをとりながら歌う。大きな河川に恵まれないこの島で、水汲みは女が行う日々の重労働だった。つねに水難死と背中合わせの海女の唄には、ときおり哀切的な悲歌を内容にもつ歌詞もある。しかし概して力強く、明るいエロスも感じた。
海の歌と山の歌の違い、女性の島と言われるこの島で男たちの遊び歌や春歌の有無(→あまりない。猥歌というより、夫や姑の愚痴を述べる歌が多い)、かつてこの地を支配した元(モンゴル)(→米軍の空爆によって命を失った朝鮮人慰安婦を慰霊するために訪れた与那国島で、馬を前に歌ったエピソードをお話してくれたあとに歌ってくれた馬追い唄は、たしかに北方の遊牧民の歌に似ていた)や陸地の文化の影響、さまざまな話をお聞きした。確かめたかったことや、いろいろなことを知った。国楽が盛んな韓国だが、国立済州大学には伝統音楽の学部がなく、研究者の多くも民俗学者や文学者ばかりであり、音楽的な観点での研究が進んでいないのが残念だとのこと。
スタジオをあとにしたわれわれ一行は、南西の西帰浦方面で行われる先生のクラスを、さらに見学させてもらう。そこではスタジオとは異なり専門的に済州民謡を教えるのではなく、街の女性たちの有志に幅広く韓国民謡や舞踊も含めて教えているそうだ。わたしはこの日に到着する舞踏家の亞弥さんを空港に迎えてピックアップするため、レッスンの終わり頃に駆け込んだ。一足先に到着した台湾原住民族タイヤルにルーツを持つ歌手、エリ・リャオさんとの民謡交流の一コマもあったとのことで、あとで映像を見せてもらった。
近所の老人ホームでそれを披露するための練習だった。現役の海女や特産のミカン農園で働く方、大阪や東京で暮らしていたという方もいらした。
ハルモニたちが歌う海女の舟唄「イヨドサナ」をここでも聴きながら、クルドの歌を思い出した。昨年在日クルドの女性たちと交流し、昨秋一つの舞台作品を上演した。そのなかで歌ってもらった、「ロロクロ ロロクロ」と歌う子守唄が、ほぼ同じメロディだった。私が暮らす埼玉県の蕨や川口には、トルコでの迫害等を逃れてきたクルド人が2〜3千人暮らしている。日本の入管法によって強制送還される危惧の中で暮らしている。
【あいつの韓国語】
レッスンが終了し、「ハナ、トゥル、セッ」の合図で、また記念撮影。古くからの友人の声が脳裏に甦った。
K君と出会ったのはもう15年くら前。私が30をすぎてまもない頃だか、もうその頃の私の年齢をとっくに超えているはずだ。
やんちゃな高校生だったあいつ、彼が東京の北区周辺で組織していた演劇活動を手伝っていた。昨年およそ10年ぶりに再会した。韓国の正歌の歌手ジー・ミナや在日クルド人女性たちとおこなう公演の舞台監督を、急遽お願いすることになったからだ。
現在の彼の生業は、地下アイドルのプロデュース業と、カードゲームの利権管理とのこと。だがらこうした舞台の仕事をすることはなく、かつての縁で引き受けてくれたのだ。
彼の母方のルーツは済州島にあり、お婆さんは上野アメ横で喫茶店を営んでいたと聞いたことがあった。ある時期には、毎日のように会った彼から、それ以外に韓国にまつわる話やエピソードを聞いたことはなかった。
その頃、若くして亡くなった彼の母の荒川区の斎場で行われ葬儀に参列した。韓国風はまるでなく、昨今の葬儀場らしい簡素なお葬式だった。お父様は、かつて演歌歌手、石川さゆりさんの舞台の裏方をしていらしたそうで、いやがおうでも眼に入り込む彼女の献花のほか、たしかに韓国名に由来すると思しき名を記した親族からの献花もあった。
私には、自らのルーツと創作人生とが深く関わり合っている韓国、朝鮮に家族のルーツをもつ、音楽家や、芸術家、文筆家の知人は多い。しかし彼は、そういうことは考えたこともなく、ただそれだけの事実だと言っていた。韓国や朝鮮にルーツを持つといっても、それに対する想いは、とくにジェネレーションも経ればさまざまであろう。
すでに在日二世がおり、やがて三世も誕生するであろう私の隣人、クルドの人々、少年や少女はどうなってゆくのだろう、と思う。
そんなK君は、昨秋の舞台公演では、韓国から来た歌手を気遣い、翻訳機を使ってよくサポートしていた。雑用も含め裏方としての仕事を仕切った彼は、終演後の記念撮影の撮影役になる場面も多かった。「ハナ、トゥル、セッ(1,2,3)」と合図を出して、スマホのシャッターを切る。
帰りの電車で、彼は笑いながらこういった。「俺が知っている唯一の韓国語です」。思い返すと、家庭の中で母親が、ちょっとした所作によくわからぬ言葉、すなわち韓国語らしき言葉を使うこともあったが意識することもなかったそうだ。「でも韓国の血はたしかに俺の中に流れているとわかるんです。それについて考えたりするようなことはしませんけどね」と言ってから続けて、「今回は、せっかく韓国から来た歌手に、孤独な思いをさせてはならない、というくらいの気持ちは湧くんですよ」と話した。
なんとか間に合ったレッスンが終わり、安福子先生とハルモニたちとの記念撮影。昨秋のK君の「ハナ、トゥル、セッ」の掛け声が甦って脳裏に反芻されるなか、会場を後にした。
スタジオの扉から出る前に、もういちど先生にお礼と別れの挨拶をしに行く。
差し出がましく、そういうことはわざわざ言わないほうがよいとも思ったが、「私には、この島に家族の出自を持つ友人が多くいます。そのなかにはご存じの通り、国籍上の問題だったり、この地を強く意識したり、さまざまな事情で、簡単にはここに来られない人がいます。だから、今回私がここを訪ね、大事な歌の話を聞くことを、半分は後ろめたく思っているのです。」と言い始めると、旅に同行してくださった日本生まれのアン・スンジンさんが通訳してくださる。
すると先生が、「あなたが伝えてくれれば良いのです」と言いながら笑った。私には後を継ぐ言葉もなく、「カムサハムニダ」とだけ言い、先生とおばさんたちに、深々と頭を下げて別れた。
【新しい銅鑼の響き】
南の西帰浦から北の宿まで、暗い山道を飛ばす。待ちきれずに車の中で、昼にスタジオで購入したばかりの新しい銅鑼(jing)を軽く叩いてみた。
旧友の韓国打楽器奏者、チェ・ジェチョル氏から長らく銅鑼を借りていた。「この銅鑼(息子)の音を愛してくれる河崎さんだから、預けているんです」などと言われ、信頼してくれて、ただただ嬉しかった。
時折彼が本番や録音で用いるためにお返しする以外は、私の家にあり、私もよく本番で用いる。昨年末も、演劇音楽で用いたばかりだ。
壮士劇から出発し、「オッペケペ」と自由民権の声を響かせた川上音二郎が、日清戦争を礼賛する劇を作るようになる過程をフィクション化した作品だった。歴史の教科書の戯画でもおなじみだが、戦争の大きな背景は両国の朝鮮半島利権獲得にあり、日本がそれを得た。のちの植民地時代、第二次世界大戦中の強制的な金属供出において、このジンやケンガリなどの銅鑼も奪われ、武器や飛行機の資源となった。私はこの舞台では、韓国の銅鑼の音をに響かせたかった。ラストシーンでは暗闇の中で、私自身がそれを乱打した。
しかしさっき購入したものは、その彼の銅鑼の音質とはかなり異なる。低音から発する倍音が、いつまでも広がり渡るその深い音色は、韓国伝統の合奏や舞踊などの伝統文化の通奏低音をなす。低音楽器(コントラバス)奏者でもある私は、これまで使ってきた彼の銅鑼の音を愛して用いてきた。
しかし済州島の銅鑼は、少し小さめなので、音が高い。撥も太いマレットではなく、棒状のもので叩くことも多く、カンカンと固い印象だ。もっぱらシャーマンの儀式クッで、トランスに導くように用いるからだ。
チェさんの母方の故郷は済州島だと聞いた。大阪で暮らしていた祖母が晩年、故郷の神房の霊力を頻繁に頼るようになって家に呼んでいでいたという話を聞いた。もう取り壊された大阪の占拠地にあった「竜王宮」や生駒山地などには済州島の巫覡を行う仮設的な堂もある。済州島の出身者でも、男性はそれを訝しがることが多かったそうだが、幼少の彼も気味悪かったと思い出を語ってくれた。
韓国語と済州方言の関係は、大和言葉と琉球語の違いによく譬えられている。晩年はうわ言のように済州方言をしゃべるようになり、娘であるお母様さえも理解できず困ったようだ。先述した安福子先生の母親のエピソードをお聞きした時、彼が語ってくれた祖母の話も思い出した。
私がいよいよ済州島に旅に行くことになり、自分の銅鑼もそこで手に入れるつもりだと伝えると、「俺にとってはチェジュは、いつか海を這ってでも行く土地なんです」と言った。日本や韓国の各地の街道や山々で、チャングを叩き歩き続けてきた彼は、母のルーツ済州島には、まだ行かないでいる。
さて渡航前にチェさんに銅鑼をお返ししたので、my銅鑼(息子)を手に入れることは、この旅の目的に一つだった。
この島は民謡の宝庫であり、一大観光地である。当然、韓国の伝統楽器を売る店が当然あると思い、来島する前にインターネットで探したがみつからない。
ソウルの作曲家チョン・ウォンキ氏に情報を求めると、済州島には伝統楽器を売る店もなく、それを作る工房もないのだという。みな陸地に発注するのだそうだ。
そのことからも半島文化の流入の歴史が伺える。かつてもそのように伝わったそれらの楽器を、民謡や祭儀に独自の奏法で用いてきたのだろう。
先生のスタジオまで、一通りの済州島の巫覡で用いる打楽器を用意して届けてくれたのは、伝統打楽器のこの島の第一人者コ・ソクチュル氏だった。
氏は念のため、先述したような音色の特徴をもつ済州島巫覡で用いる小型なものとは別に、韓国の伝統音楽で用いる、つまり私がチェさんから長い間お借りしていた一般的なタイプの銅鑼も用意してくださった。
どちらを選ぶか一瞬の躊躇はあったが、試奏ののち、小型を選んだ(小さい分少し値段も安い)。私は、少しヒステリックともいえるこの済州島のシャーマンの銅鑼とともに、これからの音楽人生を共にしてゆきたいと思った。
【東の地中海】
5日間の短いリサーチでは、このような直接的な交流のほか、私にしては珍しく多くの博物館や民俗資料館を訪ねる旅でもあった。今回の創作は、この済州島と琉球を繋げるような創作になる予定だ。
膨大な情報にまだまとまりがつかずここには書けないが、多くを巡りそのような視点からの発見も多かった。同行の美術キュレーター渡辺真也氏の、世界や日本の神話や宗教史、古代から現代史に至る膨大な知識と、馬山で青果市場を営み韓国の現代美術のディレクターもなされているアン・スンジンさんが通訳までしてくださったおかげで、「東の地中海」ともいえる海洋文化圏の、国境を超える交流のダイナミズムに触れ、より幅広い創作視野を得ることができたと思う。
帰りのトランジットで、ソウルの金浦空港そばの巨大なショッピングモールのカフェで落ち合った、チョン・ウォンキさんがみせてくださる、済州島のさまざまな現代のクッの映像を見て、あらためて思う。
<チョン・ウォンギ「 정화淨化X무악巫樂」巫覡クッを基にした創作>
草木や黒岩の陰から鬼神たちの笑声のような気配がする。
ほうぼうから漂ってくる歌声の幻影が、島を充たしている。
それらの歌声が情動に訴えかける明快な旋律に納まらないのは、この島に国家主導による「伝統文化」が形成されなかったからこそ、なのかもしれない。国を持たなかった(持てなかった)クルド民族の、独自の複雑な歌唱による伝統叙事詩などの音楽文化もその意味では同様だ。
あるいは自然や政治に翻弄されて命を失った人々の、語りえぬ声が鳴りやんでいないのか。そこに、安福子先生の母のうわごとや、先生やチェさんの記憶やら、K君の写真撮影の掛け声、金時鐘先生が回想した異郷の南道民謡の思い出も重なって繋がる。
かつて常に卑民とされた神房が、いまなお、それらと対話しながら島に霊魂を呼び戻しつづけている。
コメントをお書きください