蕨で出会ったクルドの歌① 全文はこちら
古い団地の一室に響いた声、それを聴けたこと、目の前のその風景を私は生涯忘れ得ないでしょう。
「Yさんのお宅にクルド人の音楽家が来るからぜひ立ち会ってください。」との電話。2022年7月、出先の池袋で信号待ちをしていたときのことです。
【出会いとコロナ】
伝統音楽を、日本で生きる子供たち世代にも受け継ぎたい、というYさんたちクルド人女性の歌と太鼓と一緒に演奏する機会は、コロナ直前2020年の初頭にありました。難民認定を受けられず不自由な立場にある在日クルド人への支援も行う、私の住まい近隣のブックカフェココシバで催した私のイベントの中でのことでした。
これからも一緒に練習し、春先に行われるクルド民族の祭りでも一緒に、とのことでしたが、残念ながらコロナ禍で祭りも中止。
【団地の一室での再会とセルダル・ジャーナンとの出会い】
あれから2年半。電話はそのカフェの関係者の方からでした。急遽蕨に戻りました。
雨上がりの蒸し暑い夏の午後、私の住む駅前のアパートから線路を越えて、アドレスを頼りに30分ほど歩いたところに、古びた団地をみつけました。四階まで階段を上がり、初めて近隣に暮らすクルド人のお宅の扉を開けました。
故郷の暮らしの痕跡を留めているだろう部屋を眺める間もなく早々に、紳士的な感じのその男性、音楽家、研究者のセルダル・ジャーナンが歌いはじめました。
身体と心の奥底から搾り出され、細やかに喉が震えます。初めの一節が終わらないうちにもう、なにかが琴線にふれて涙腺が緩む。
ムスリムの男性とクリスチャンの女性の悲恋を歌う古い叙事詩とのこと。クルド人が暮らす地域周辺には、シリア、アルメニアなどキリスト教徒の多い土地もあります。実際にそのような出来事は多かったそうです。叙事詩だけでなく、子守唄や民謡も次々と歌ってくれました。
この街に長く暮らす私ですが、この部屋の中では異邦人ともいえます。
「異邦人であるわたしの心に、これほど深い感情をよびおこしたというのは、どういう理由であろうか。これはきっと、あの歌い手の声のなかに、一つの民族の経験の総和よりも大きな或るもの――人間生活ほども大きく、善悪の知識ほども古い或るものに訴えることのできる素質があったからであろう」
明治時代、辻で歌う、瞽女歌を目撃したラフカディオ・ハーンの文章。
セルダル氏は、Yさんたちのようにトルコから避難してこの地で生活するために日本に来たのではなく、全国の大学などでクルド文化をレクチャーするために訪れていました。帰国間近でしたが、その前に小さなコンサートも行いたいということで、この5日後に私が主催することになりました。
次いで、この街に暮らす3人のクルド人女性の太鼓と歌。セルダル氏のアドヴァイスを受け、苦労しながらリズムを刻み、歌詞カードを見ながら声を絞り出すように歌います。
さっきまで手を叩いて歌を聴いて小さな娘は、隣室で寝そべって日本語の動画を見ています。泣き叫んでいた赤ん坊はいつの間に眠っていました。
【Denge Jine Japan 】
秋の音楽詩劇研究所ユーラシアンオペラの新作に彼女たちDenge Jine Japanも参加してくれることになり、たびたびあの団地を訪ねて、練習を重ねました。
クルド人はトルコの総人口の約2割をなしますが、「山岳トルコ人」と呼ばれます。つまり、トルコにはクルド人は存在しない、ということです。ゆえにクルド語の使用や民族の祭りなどは長く禁じられていました。生活には残りますが、「国語」として習うのはトルコ語です。クルド人の彼女たちが母語で歌うということは簡単ではありません。
各地で方言もかなり異なるとのこと。方言の多様性は、この民族が独自の文字を持たず、教育で統制された言語を用いる必要がなかったことも意味します。これまで国を持たず各地を離散した歴史的背景も反映しているのか、苦痛を歌う悲しい内容の歌詞が多いのですが、彼女たちはみんな愛の歌だと言っていました。
故郷の村で、身近だったアレウィ派の人々の踊りも教えてくれました。セマーといわれる旋回舞踊ですが、以前私がイスタンブールで観光用に行われているそれを見た時のものとは、だいぶ違いました。彼女たちはアレウィではないとのことでしたが、身近な存在だったそうです。イスラム神秘主義異端派であるアレウィは、断食の時期が違うなどさまざまな慣習の違いがあり、主流をなす他派の迫害される存在だったと言います。モスクを持たず公堂のような場所で歌や踊りがおこなわれます。
苦労しながら一面太鼓(ダフ)を叩きながら歌うのとは異なり、独特の身振りが、彼女たちの身体には染み込んでいるようでした。
彼女たちと一緒にコントラバスを弾きながら、その歌の繊細さや力強い深さは、クルドの人々が国をもたなかった(もてなかった)ということに関係があるのかもしれない、とも思いました。民族国家が形成されれば、伝統は体系化され、洗練されますが、かわりに生活と密着した、歌の機微や深みは失われてゆきます。世界に離散するクルド人の多くは、もちろん独立自治、願わくば国を持つことを望んでいます。そんな彼女たちは私に
「わたしたち おんがくべんきょうしてない。だからすうじでおんがくわかりません。カワサキさん、だからもっとおしえてください」
こんなふうに言います。数字とは、拍の数を数えることです。私は、知らなかった歌を教えてもらっている立場でもありますから、「はいわかりました」とは言えませんでした。なので「一緒に練習しましょう、もっとあなたたちの歌が知りたい」と答えました。
同じ場所で彼女たちDenge Jine Japanのとコンサートを行った
日本で盆唄や、門付け歌を聴いたハーンの言葉をまた思い出します。
「私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。感情とは、どこかの場所、や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるものの万物の喜びや悲しみに共振するものではないだろうか」
7階にある自宅の玄関の扉を開けると、視界の先に広がる空から、目の前の線路の向こうに暮らす彼女たちの歌声の端々が漂って聞こえ、身体の中、頭の中を廻りはじめます。
やがてそこに、さまざまな言語の歌声が、混ざり合い、無音の音楽を響かせ、それが消えたり、また現れたりします。ロシアの、韓国の、台湾の、ウクライナの、トゥバの、トルコの、これまでにユーラシアンオペラで共演した様々な言語の声や歌。それは母語である日本語の歌によって喚起される情感や身体感覚とは別の、言葉で言い表してしまいたくないような、不思議な感覚。
いつからか向こうの空を見ると反射的に、そんな声が重なって響くのです。晩秋のユーラシアンオペラの公演は、いやその先もずっと私の身体の中で、鳴りやまないのでは、と思われました。
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