Op.4 黒潮の子(2024)
音楽詩劇研究所主催(国際交流基金 2024年度舞台芸術国際共同制作事業)
「黒潮プロジェクト 台湾─与那国─済州」
◎ 第二部:ユーラシアンオペラ Op.4「黒潮の子」(約90分)
演出・作曲:河崎純(音楽詩劇研究所)
現代の女性であるShioは架空の島から、海を渡りながら島々(台湾・与那国・済州)を訪れる。島々をめぐるShioが各地の歌を通して出会うのは、伝承文化の独自性の持つ豊かさと、消滅危機にある言語や慣習だ。
各島では、不思議な翁が、唐突にShioに語りかける。それらはたとえば国家による「正統」な歴史にうもれ、消し去られた声だ。漂流を続けるShioはそれらの語りえぬ声を感受しながら、未来の「語り部(巫女)」になる。
黒潮の流れに貫かれる島嶼文化の歌唱からは、国境という分断線から解放された、緩やかな交流と繋がりを想像できる。外来者の無数の漂流と漂着によってそれらはもたらされてきた。私たちは、それらを、現代のディアスポラ、移民や難民の来歴に重ねて演じる。
世界が抱える移民者、難民の人権問題も見つめ、共に生きる人間のありようを創作に求める。
語りえぬ声に耳を開き、島々の精神に学びながら、Shioの体験と感受とともに演者と観客とがそれらを体感することが、この舞台上演の目的である。
第一部と第二部はともに、境界とディアスポラをテーマに、混迷する排他的な世界に向けて新たなビジョンを投げかける。
◎ 第一部:「そして魂と踊れ」(約40分)
演出・作曲:チョン・ウォンキ
韓国の済州島の巫俗からインスピレーションを得た、現代の儀式でありレクイエムでもある作品は、1984年4月9日から4月11日までに行われた、済州島の海辺にある村の一家によるクッ(巫俗)を描いている。代々日本に移住してきた人々の物語だ。魚を捕り、海を渡って大阪と行き来したが、激動の歴史は彼らを翻弄した。日本帝国主義の植民地化、済州島の4・3事件、冷戦の開始によって分断された朝鮮半島における一家の離散と予備検挙など、想像を絶する波が人生を翻弄した。しかし、「生きていれば 生きているさ」と言う。黒潮に渦巻く生と死、魂が国境を越え、今ここにいる私たちに語りかける。
【上演データ】
<ソリスト>
エリリャオ Eri Liao
日本語、中国語、台湾原住民諸語、英語を用いてオリジナル楽曲から民謡、Jazzも歌う、タイヤル族に出自を持つ歌手
東盛あいか
映画監督・俳優。消滅危機言語である与那国語とラップと融合させて発信する活動にも力を注ぐ
ムン・ソクポムMoon SeokBeom(韓国)済州島民謡・俳優
特異な済州島文化の研究に基づき、労働の所作をともなって民謡の原初に遡る、唯一無二の存在
リ・リーチン 李俐錦 Li LiChin 中国笙(シェン)
台湾とヨーロッパを往来し、伝統的な楽器を現代の国際的な舞台芸術空間に融合。身体の動き、即興的な構成など様々な芸術形態に応用する鬼才
パク・スナ Park Soona(韓国)カヤグム
日本に生まれ、ピョンヤンと韓国でそれぞれ異なる伝統芸術を受け継ぎ、新しい次元の音楽世界に向かう
チャン・ジェヒョ Chang Jaeyo 韓国打楽器
驚異的な技術と実験性を兼ね備えたしなやかな演奏のみならず、ソナギプロジェクトを主宰し、さまざまなプロデュース、芸術監督など国際的に活動
当日パンフレットより加筆
黒潮に渦巻く記憶の反響 河崎純
―私は誰?
―私はどこから来た?
―私はどこに行くの?
名も知られぬ土地から始まるSHIOの旅は、島々の唄に出会う旅路です。島々の唄から生命の力を授かり、黒潮に渦巻く逞しくも微かな歌声は、SHIO自身の歌になっていく。
島々は、固有の言葉や方言で豊かな唄を紡いできましたが、その継承すら今では危ぶまれています。
台湾原住民族の民謡は、南洋へと広がるオーストロネシア歌唱の原型とも。山海の滋養を吸い上げたスピリチュアルな古謡だけでなく、日本語も含む多様な言語の影響が交じり合って生まれた、歴史に翻弄された原住民族の心を癒し鼓舞する「ブルース」ともいえるクレオール歌謡も懐かしく響きます。
日本最西端の与那国島の民謡は、沖縄や八重山の歌とも趣を異にし、より南洋の記憶を留める。生死の境を往来する風葬の慣習に基づく葬礼歌、隣島でも通じない与那国語で歌われる素朴な労働歌や子守唄、年中行事や祭の音は、人の暮らしに根差す歌の原初を思わせます。
済州民謡は、火山島を吹きぬける風のごとく逞しく優しい。幻の島を求める海女の歌声にもその気質は顕著で、パンソリや農楽など、日本でもよく知られる陸地の伝統音楽とは異なる。それを紡ぐ済州語も半島の言葉とは違い、日本における沖縄語にも喩えられます。島民無差別虐殺事件を描いた『別れを告げない』(ハン・ガン)の訳者は両島の歴史的悲劇を重ね合わせ、済州語を沖縄語に翻訳しました。
各島の歌声には、そこはかとなく共通する何かがあります。それは漂流による、無数の漂着がもたらした歴史に残らぬ海上の交流こそが育んだのでしょうか。
SHIOを導くのは唄だけではありません。各島で、どこからともなく現れる奇妙な老人が語る、漂流にまつわる【不思議な伝説=異聞】に引き寄せられるかのように、海を渡ります。
【異聞】が伝えるのは、歴史に残されなかった人々の声の痕跡。たとえば、固有の文字を持たず歌うことで記憶を継いできた人々が、強要された言語や文字を使わなければならないことへの戸惑い。あるいは、異郷で空爆を受け、海に沈んだ女性たち。
歴史の闇に沈黙を強いられた史実は、「小さな声」が翁たちによって語られます。
それは分断の狭間で葬られ、離散を強いられた人々の魂……
しかし海は人々を遠ざけ、人々を繋ぎます。方々からたどり着いた無数の漂着物のように浜辺に留まったり、また潮の流れに乗ってどこかへと漂ったり。
社会では国境線をたよりに、国家間の利害に基づいて、物事が計られ、取引され、政り事が行われます。かつて海上では、歴史に残らない、無数の偶発的な交流があったことでしょう。そこには、国家の都合で歴史の闇に葬られた無数の悲劇的な真実も「異聞」として存在し、あるいは沈黙を余儀なくされ、無かったことにされるのでしょうか。
上演のラストシーンでスピーカーから響くのは、先日まで日本に暮らしていた友人の歌声。我が部屋ででも一緒に練習したりコンサートを行ったりしていた、近所に住んでいた在日クルド人歌手の日本での歌声です。彼は同胞をたよって来日し、約2年、解体現場仕事をしながら暮らしていました。日本語を覚えられず、私と彼の会話は、スマホのトルコ語を介して翻訳アプリでした。同胞の行事や、私たちが企画するコンサートでも、たくさんの民謡や歌謡を共演しました。
トルコ、日本の国家間の良好な関係を示すため、彼らは難民認定を受けることはできません。仮放免の立場にあり、突如強制送還される恐れのなかで暮らしています。帰国したとて、反政府組織としての厳しい処遇も考えられます。
単一民族国家を標榜したトルコにおいて、かつて長らく、クルド人がさまざまな差別、ときに迫害を受けてきたことは事実です。公の場や流通で、母語を用いること、ましてその言葉を公の場で歌うことは禁じられていました。
不自由かつ将来性は少ないが、それでも安全な日本を去り、家族の暮らすトルコへ帰国するという決意を聞いたのは、そのひと月ほど前。リスクは半々であることも分かっていたので、入管で身バレせぬよう、楽器も日本に置いて帰りました。帰国の前日に彼と会った友人によると、その一点のみが気がかりだが、だいじょうぶだろうと。しかしイスタンブール空港で5年間の勾留を言い渡され、その後消息は途絶えました。日本の新聞やSNSによる好意的報道までもが仇となってしまい、民族決起集会ともとれる春祭りで、弦楽器を弾きながら、懐かしい民謡とともに、同胞の高揚を促す歌を歌っていたことがあらかじめチェックされたと思われます。
彼がいま、どこでどうしているのか、連絡も取れませんが、彼の歌声や弦の音は、私の部屋から、耳から離れない。
本作では、言葉や故郷から引きはがされたディアスポラの生のあり様が、現在の日本に生きる私たちと分かちがたく繋がっているという事実が、異聞と史実を織り合わせながら、歌い語られます。
人々は、歴史の渦の中で離散を繰り返し、異郷から故郷と対話し続けてきた。精神の故郷を失って漂流する現代のわたしたちは、みな「ディアスポラ」ともいえるのかもしれません。
また、誰しもがルーツを辿れば、よりよく生きるために移動した「外来者」だったのではないでしょうか。その記憶を眼差せば、私たちは分断を安易な排除へとつなげることはない。
さて、不思議な異聞や各地の民謡から力を授かって、とある島にたどり着いたSHIOは、どこへと向かっていくのでしょうか?とある島とは、いったいどこなのでしょう。